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成長痛(オチヒカ子)


「ねえ、越智先生ってさ。」
女流トーナメントが行われた後のレセプション会場では、あちこちで女流棋士達のお喋りが喧しい。


「せんせえ!?あんなヤツ、越智でいいじゃん、越智で。あと、おっちーとかさあ。」


あまり良く似合っていないピンクのスーツ姿の女性の毒舌に連られて一斉に笑い声を上げた朋輩たちに、最初に発言した一人がしいっと、唇に人差し指を当て、声を潜める。


「実はさ・・・・・・・あの、越智商会の御曹司らしいわよ。」


全員が、げっとひと言漏らしたきり言葉に詰まり、それから横目でちらちらと周りの様子を伺いながら、興味深々、と言った顔つきで質問を始める。


「まさか、だって、あの?」


「だってそれなら棋士なんてしてるワケないじゃないの。あらでも、社会勉強してらっしゃるのかしら。」


本人の越智康介もこの場にいない、噂がガセかもしれない、というのに、早くも言葉遣いを改め始めた現金な一人が、あどけなく首を傾げた。

「バカバカしい・・・・・。それならもっと早くに噂になって皆知ってる筈でしょ?大体アナタ、そんな話どこから聞いたのよ。」

最初にあんなヤツ発言をしてしまった行きがかり上、いきなり態度の急変もできずに、それでいて顔に『しまった出遅れた、何よアンタタチだって笑っていたくせに』と焦りをそのまま貼り付けたピンクのスーツが突っかかった。

「明日発売の週間夕日、ホラ、うち神田でしょ?一日早く売ってる場所がいくらでもあるのよ。そしたらさ・・・・」

「あ!あの巻末のグラビアでしょ!?」

巻き髪を揺らして一人が叫んだ。

「『ウチの跡取り』ってやつ!」

最早声が裏返っている。
それも無理はない。週間夕日毎週の特集『ウチの跡取り』には、各界の著名人とその孫がツーショットで紹介される。歌舞伎の大御所、高名な指揮者、世界的な動物学者・・・・・それらの有名人に混ざって紹介されても何の遜色もない程、越智商会の名は全国津々浦々に知られていたし、その財力、磐石たる経営、斜陽久しい日本経済における唯一の勝ち組とまで言われる名門の跡取りが、まさかの『おっちー』だと言うのだ。

「どどどど、どうしようあたし!こないだ指導碁して貰ったのにお礼をお返ししてない!」

「あらあたしだって!棋院の近くのカフェで席譲って貰ったことあったのに!」

「アンタの事なんて覚えてやしないわよ!」

「何よ!おっちーとか言ってたくせに!!!」

余りの盛り上がりように、周囲が何事か、とその一群を遠巻きにして眺め始めた。
レセプションとは言え、一応は公式行事。主催者も賓客も集まり始めているのに・・・・と眉を顰めた奈瀬明日美が足早に近寄ってさり気なく注意を喚起しようとした所、逆に捕まえられて、腕を引っ張られ、その場に取り巻かれた。

「奈瀬せんぱ?い!越智先生があの越智商会の跡取りだって、知ってました!?」

彼女達の全身から立ち昇る熱気と得体の知れないオーラに、奈瀬の唇はひくついた。

「あ?ああ・・・・・・越智?ああ、そうだけど。何よ、知らなかったの?」

「知りませ?ん!」

   私に媚売ってどうすんのよ、この子達・・・・・。

奈瀬は心の中で悪態を吐いた。

   大体越智も越智よね。あんな風にいつもすかしてるから、こうやって時々ブレイクすんのよ。

越智康介が大財閥の御曹司で、いずれその跡を継ぐ、という風評は何年かに一度棋院を席巻する。その度に、知らなかった者たちは大仰に驚き、しばらくは越智を遠巻きに、または妙に親しげに近寄って、と、とにかく越智を意識して止まない。
けれど、越智本人は至って淡々と、否定も肯定もせずにいつも通り無愛想に振舞うので・・・・やがては誰もその話題を口にしなくなる。
それが恒例になり、時期が過ぎれば周りも取り立てて思い出しもせず、またわざわざ人に伝え広める事もせず、そしてまた次のブレイクがやって来る。

「どうして教えてくれなかったんですかあ?奈瀬せんぱーい。」

くねくねとシナを作った、20歳そこそこの巻き髪に、奈瀬は苦笑する。

「どうしてって・・・・・・」

   教えたって、アンタ達には全然関係ないから。

と言ってしまってよいものかどうか、一瞬躊躇う。

「越智にとっちゃ、そんな事は大事な事じゃないみたいよ。越智が将来どうするか知りたいんだったら、アンタ達、直接聞けばいいじゃない。」

   鼻も引っ掛けられないだろうけれど。

ええー、アタシ聞けなあい!私、聞いちゃおうかなあ・・・・ズルイわよ、アンタ!
きゃあきゃあと湧き上がった黄色い歓声に、奈瀬は一人ごちた。

   まあ、いいわ。何も私がやり手ババアみたいに、この子達を整理してやる義理もないし。
   だいたい越智がいつまでもあんな風にすかしているから・・・・・・

奈瀬の気持ちはまた還元する。
ヒカルと越智が付き合っている事を知る者は少ない。
気付いて・・・・・・・それを口に出す事が出来ずにいる奴らがちらほら・・・・・、と奈瀬は踏んでいる。
あの二人が並んで歩いていても、電車に乗り合わせていても、誰も連れ立っているとは思わない。以前ヒカルが奈瀬に、笑いながら話した事すらある。越智と一緒に電車に乗っていたのに、痴漢に合いそうになった、と。

「・・・・・・・・・に越智先生って、背も高いし?。」

   そう、越智はある日を境に急に大きくなった。

越智が大きくなるに連れて、ヒカルと越智の間にあった不釣り合わなさは影をひそめた。
今なら奈瀬は、あの二人に「お似合い」という言葉を与えても不足はないと思っている。越智の身長が急激に伸び始めた頃から、ヒカルと越智が共にいるところを奈瀬は頻繁に目にするようになっていた。

「・・・・・・・胸板だって結構厚いでしょ?メガネ取ると案外いい男だったりしてさあ。」

けれども、越智自身が、自分がヒカルに相応しいと今でも思っていない事も明白だった。




「だからそこがいいんじゃん。」

ヒカルが言っていた。

「越智がオレに初めてキスした時の話、聞きたい?」

薄い唇を歪めて笑ったヒカルは、本当に越智の事が好きなのかと、奈瀬は首を傾げた。

「・・・・・・聞きたくない。」

二人がいつから付き合い始めたのかを奈瀬は知らない。けれども、彼らの淡々とした付き合いは彼らがプロになって間もなく、案外早い時期に始まっていたのではないかと、奈瀬は推測していた。

「どうせ、越智の方がアンタより小さくて、アンタが無理やり越智の唇を奪ったとか・・・・そんなとこでしょ?」

まさかそこまでの事はあるまいが、彼らのファーストキスなど奈瀬にとって想像の域を超えていた。

「んーと、そうでもないよ?越智の方がずっとでかかった。だって去年だったし。」




「去年お取りになったタイトル、今年も防衛してらしたわよねえ!」

奈瀬は、その甲高い声に我に帰った。

   キス一つに10年・・・・・・・・・

アンタ達、一体いつから付き合ってんのよ!と噛み付いた奈瀬に、んー、はっきり付き合おうって言われた訳じゃないけど・・・・・15かなあ、16かなあ、とにかくそのくらい、と、そう答えたヒカルに眩暈を感じた日の事は忘れられない。

   アンタ達が、束になってかかっても越智は振り返りもしないわよ。

奈瀬は、明日から始まる本因坊戦のために休養し、『女流』などというある意味客寄せのトーナメントには最早顔を見せる機会も少なくなったかつての院生仲間へと思いを馳せた。






ヒカルが、道端に蹲る越智康介を見たのは、彼女が15歳の冬の日であった。

「越智じゃん!何してんの?こんなとこで。」

気軽に声をかけたヒカルに対して、越智は不機嫌そうな眼差しを一度向けただけで、再び足元の地面を見詰めていた。

雪が雨に変わり、みぞれ交じりの荒れ模様と化した寒い日の夕暮れだった。

「いつものお迎えはどうしたのさ。棋院の前に車横付けしてんじゃん。・・・・・・・具合悪いのか?・・・・なあ、おい、何か言えよ。」

越智に差し掛けた傘を邪険に振り払われ、いくら話しかけても無視のされ通しで流石のヒカルも声を荒げた。

「越智!聞いてんのかよ!オマエらしくないじゃん!何でこんなとこで座り込んでんのさ!」

「・・・・・・・・放って置いてくれないかな。」

漸く、越智がぼそりと口を利いた。
冷たい雨は越智の髪を濡らし、そのまましずくとなって丸い眼鏡の上を辿り頬を滑り降りていた。

「・・・・・・越智?」

何気なく越智の手を握ったヒカルは、その手が氷のように冷たい事に気付いてぞっとした。

「何してんだよ!風邪引くじゃんか!おい!そこのマックでいいからちょっと入れ!」

そのまま越智の手を引いて近くの店先に走り込もうとしたヒカルは、立ち上がった越智がよろめいてもう一度ぬかるみに膝をつく姿に我が目を疑い、漸く事態の緊急度に気が付いた。

「どうした越智!ホントにマジでオマエ、どっか具合悪いのか!?」

蒼白な顔をして叫ぶヒカルに越智が呟いた。

「何でもない。耳元で騒ぐな。・・・・・・・ただ、足が痛いだけだ。」

「足が痛いってオマエ・・・・・」

オロオロと越智の周りを歩き回るヒカルも今はずぶ濡れで、それを見た越智は苛立った声を上げた。

「僕の事なんか放っておけよ!さっさと行けよ!僕に・・・・僕に近付くな!」

確かに越智は愛想のいい男ではなかったが、こんなふうに拒絶されたのはヒカルにとって初めての経験だった。体を丸めてハリネズミのように全身で世界を威嚇している越智を笑っていいのかそれとも慰めてもいいものか、とヒカルは言葉を失った。
二人で、どのくらいそうしていたのだろうか。
よく考えれば、越智はタクシーに乗ろうとして、そして生憎の天気のため行列が出来ていたタクシーを諦め、目と鼻の先にあるバス停まで歩こうとしていただけだった。

越智の視界の中を家路に向かうバスが何台も通り過ぎていった。

ヒカルとて、傘もある、駅は目の前。何も越智に付き合って寒い空の下で共に震えている義理などどこにもなかったのだけれど

膝を着く越智をその場に残して行く事ができなかった。



「・・・・・・・・成長痛っていってさ・・・・・・・・。」

ヒカルの紫色の唇を迷惑そうに眺め、越智は携帯電話を取り出した。そして、短縮ダイヤルひとつで運転手を呼び出し、市ヶ谷駅から棋院へ向かう通りに来るようにと指示を出す。

「時々、手や足が痛くなるんだ。・・・・・・・・病気じゃない。」

   テメエ、車呼べるんだったら、何でさっさと呼ばねえんだよ!

喉元まで出かかった問いは、やがて到着した暖かく滑るように走る車中に溶けていった。




それからヒカルは、越智が対局の途中手首を揉んでいる姿や、休憩時間に足を伸ばして摩る姿を頻繁に目にするようになった。それはヒカルが気付いていなかっただけで以前からだったのかもしれない。そしてヒカルは越智が特に辛そうな日に限って自家用車を使わずに登院している事にやがて気が付いた。
気が付いてしまってからは無関心でいられなくなった。
人気のある所では何気ないふうを装っているくせに、人目がなくなった途端にその場に座り込む越智を何度も見た。

「何やってんだよオマエ!」

初めて蹲る越智と遭遇してから半年、とある初夏の日についにヒカルの癇癪が炸裂した。

「何ムリしてんだよ!棋士だって仕事なんだからさ、辛かったら休んだり、あと・・・・・車で来たっていいじゃんか!見てるこっちの方が落ち着かねえよ!」

「・・・・・・・君に見ていてくれと頼んでなんかいない。」

同じバス停だった。
この頃には、越智はもう棋院からバス停までの道程で座り込む事はなかった。

「何度も言ったろ?放っておいてくれないかな。君が近付くと痛む場所が増える。」

それでも口を利いてくれるようになっただけマシなのか、とヒカルはため息をついた。
こうして誰も見ていない時にそっと近付くような真似をするようになってどのくらい経つのだろうか。そして自分は何故こんなにも越智を放って置けないのだろうかと、ヒカルは自問していた。

一年後、再び巡ってきたある夏の盛りの日、越智はヒカルに

「すまない、ちょっとだけ肩を貸してくれ。」

そう頼んだ。

越智の悔しそうな顔がヒカルには嬉しかった。
越智が自分を頼ってくれた事が信じられない程嬉しかった。




「なあ、何で?」

二人がベンチに腰をかけて一休みしながら会話を交わすようになるまでには三年かかった。

「何で、って何が?」

越智は公園のベンチでなど何も飲まなかったので、ヒカル一人がコーラを買って喉を潤していた。

「何でそんなに意地張って頑張ってんの?」

運転手は、両親は越智の変化に気付いていないのだろうか。それとも気付いて知らぬふりをしているのだろうか。こうして座っているだけでなく、並んで立っても二人の身長差はそれ程なくなって来ていた。

「・・・・・・足腰鍛えておかないとね。」

越智の言う事は相変わらずよく判らなかった。遠目に、こちらへ向かって手を振る和谷が見えた。

「僕はもう行く。・・・・・・・・言っただろ?君が側に来ると痛む場所が増えるんだ。」

越智はヒカルに笑いかけられるようになっていた。




スーツを着た越智と銀座ですれ違ったのはいつの事だったろう。
あの時の、越智の嫌そうな顔をヒカルは一生忘れられない。

「何してんだよ、リクルート?」

そう揶揄かったら鼻の横をひくつかせて「仕事だ。」と憮然と交わされた。
越智が棋士としての対局のほかに、自分の家の仕事との二足の草鞋を履き、そしてそれを誰にも口外していない事を知ったのは、それから更に一年後だった。

「自分の力じゃないのに、背後にある物のおかげで世に出られる気持ちなんて、君には判らないだろうけれど・・・・」

越智の努力を何年も見てきたせいだったろうか、ヒカルはごく自然に口にする事ができた。

「判るよ。オレにはすげえよく判る・・・・・・・・・」

驚いたように越智の目が広がって、何かを言い返そうと開いた口は、ヒカルの目の前で静かに閉じた。

「ふうん。」

越智なりの精一杯の譲歩である事はヒカルに十分伝わった。




第五局にまでもつれ込んだ天元戦で、越智は初のタイトルを獲得した。
ヒカルはその対局を中継モニターで息を呑んで見詰めていた。
越智が勝利を掴んだ瞬間、彼は今まで誰もが見たことがない程深々と頭を垂れた。そして、顔を上げる瞬間、いつもなら真っ先に整える眼鏡の蔓に手を添えず、ヒカル以外の誰が目にし、気に留めただろうか、細い目の奥を、自分自身の力を信じられないような、それでいて嬉しくてたまらないといった表情で一度だけ緩めた。
再び眼鏡を掛け直した越智は、いつも通りの不遜な表情に戻っていた。

   やったな越智。
   いいのに。
   もっと喜んでいいのに。
   オマエの力なのに、何でかな。

今すぐ駆けつけて背中をどんどんと叩いてやりたい衝動に駆られ、そしてヒカルは越智の勝利を我が事のように喜んでいる自分に気付いた。





「メガネ・・・・・・返してくれないかな。」

ベッドの中から不機嫌な越智の声が聞こえて、ヒカルはそちらを見た。

   つまんねえ、フツウの顔に戻っちゃってんの。

ヒカルは手にしていた越智のメガネを放り投げた。

タイトルを手にした越智は、実家を出てマンションで一人暮らしを始めた。あの、15歳の頃から越智が一人で養っていたのは体力だけではなかったのだとヒカルが気付いたのはいつ頃だっただろうか。

天元のタイトルを手にした越智と初めて会った日、ヒカルはその気持ちのままに駆け寄って越智に抱きついた。そのまま後ろに倒れそうになったヒカルを抱きとめた腕は思った以上にしっかりとしていて、ヒカルは、ああコイツ案外頼りになるかも、とぼんやり思った。
越智はヒカルに怪我をさせなかったけれど、反動でメガネはずれた。
越智の両手はヒカルを支えていて、メガネを直す暇はなかった。

   あれ?越智。

自分を両腕で支えた越智の目を見たヒカルは思った。

   オマエ、そんなに嬉しいの?
   オレに抱きつかれて、そんな目するの?

   天元取った時とおんなじ顔じゃん。

笑い出したヒカルを、越智は嫌そうに離した。


越智のマンションに出入りするようになり、頻繁にそのメガネを顔から取り上げるチャンスを得るようになると、ヒカルは越智ならではの『嬉しくて堪らない』という目付きを何度も見て、その度に自分もぞくぞくするような気持ちの良さを感じた。

だから今も。

ベッドに入り込んで迷惑そうな顔の越智からメガネを取り上げると、突然剥き出しの越智の気持ちが一瞬だけ現れる。
何度寝ても、越智はいつもヒカルが自分の腕の中にいる事が信じられないような、それでいて嬉しくてたまらない、といったあの顔を見せてくれる。

   だからそこがいいんじゃん。

ヒカルは奈瀬の『ぜんぜんわっかんない』といった表情を思い出していた。

   越智は今でも、これからも、今度は人の三倍努力を続けるんだぜ?

   ・・・・・・・オレの事が好きだから。




越智がフレームをきちんとたたんで、メガネをサイドテーブルの上に置いた。

「明日からの、本因坊戦。オレ、勝つよ?」

そう笑ってヒカルが越智の横にするりと入り込むと、上からかぶさるように抱きしめられた。




自分の頭の上にあって、見えない越智の目は、またいつもの信じられないような表情を浮かべているのだろう。
ヒカルは小さく笑った。  








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僕は君が嫌いだ。(オチヒカ子)


「進藤、お前聞いてた?越智の事。」

普段の彼からは想像も出来ないような真面目な表情で和谷がヒカルを見詰めた。

「オレ・・・・・・何にも聞かされてなかった。結構ショックだよな。同期なんてそんなもんかって。てか、オレなんてあいつ相手にもしてなかったのかな。だけどオレさあ・・・・・」

ちょっと待てよ、とヒカルが和谷を制した。

「越智の事って何だよ。あいつがどうかした?」

心持ち和谷の表情が和らいだ。

「・・・・・何だ、お前も知らなかったのか。じゃ、しょうがねえか。あいつって昔からそういうヤツだったしな。」

「だから越智が何だって!」

「・・・・・・・・・・引退、だってさ。」

ひと言呟いて和谷が窓の外を眺めた。




その時のヒカルの気持ちをどう表現したらいいだろうか。
簡単に言えば、「裏切られた」としか言いようのない単純な怒りが燃え上がる思いだった。

「・・・・あいつ!だから大学なんか行くのよせって、あん時オレがあれ程言ったのに!」

「お前・・・・・4年前の事まだ根に持ってんの?」

今度は和谷が呆れたような顔をする。

「だって!あいつがそんな器用なマネが出来る奴じゃないって事、オレ達は知ってるだろ!」

うん、と和谷が腕組みをする。
中学を卒業した後、高校への進学をする者と囲碁の世界一本で活動する者と、同じ年代の集まりの中でも進路は微妙に枝分かれを始めた。
勿論、それぞれの家庭の考え方もあるし、ヒカルも越智が高校へ行くと聞いた時にはそれ程抵抗を感じなかった。

「だけどさ・・・・・あんな、大学なんてとこ行ったせいで、越智の大事な時間がどれだけ無駄になったと思ってんだよ!」

越智の大事な時間は、囲碁以外の場所で有益に費やされていたのではないか、と和谷は思ったが、賢明にもそれを口にする事は避けた。

「あいつ・・・!いっつもいっつもいいとこまで行って!なのにタイトル逃して!!」

「ああ・・・・・・それはなあ・・・・・・・」

自分にも思い当たるフシもあり、和谷は思わず嘆息した。

「それで!?引退してどうすんだよ!!まさかリーマンか?越智が?あのヤロウ、リーマンになるために大学行ったのかよ!!」

「大学院、進むらしいよ。」

あまりにも越智らしく、そして自分が考えても見た事のない世界への扉を知らされて、ヒカルが口篭った。

「・・・・・・な・・・・んで・・・?」

さあ、という声を待つまでもなく、ヒカルは棋院の事務室へと走った。越智が引退するという話を確かめ、それから越智に会って・・・・と、気ばかりが焦った。
けれど、返って来た答えはあっさりと和谷の話を認めるだけで、そして当の越智はと言えば、明後日正式に挨拶に来るという。
正式な挨拶、そんな物だけでオレ達とも別れようというのか、と思うと
はらわたが煮えくり返るような気がした。

「まあ、彼の場合は師匠に当たる棋士もいなかったし、いわば独学でしたからね・・・・。何だかんだ言って、今日までよく頑張ったと思いますよ。」

そんな説明もただ白々しく聞こえるばかりだった。

「越智の住所・・・・・・教えて下さい。」

電話をしてもあしらわれるだけだと思ったヒカルは、直接自宅に乗り込もうとした。けれど、事務員も簡単には個人情報を明かさない。
ここからではなく、誰か越智君の住所を知っている人に聞いてみて欲しい、そんなふうに宥められ、そうしてどちらにしろ明後日には会えるのだからと、越智が来る予定だという時間を教えてくれた。

会いたいと思っても会えない2日間は、ヒカルのフラストレーションをいや増すばかりだった。
そしてヒカルは、越智の住所はおろか電話番号すら知らないのだ。






「ムカつく・・・・・・」

その怒りが実は淋しさから生まれている事に、ヒカルはまだ気付いていない。












その日ヒカルは、越智がやって来るという時間の30分前には棋院に着き、越智の到着を待っていた。
車から降りたらまずあいつを捕まえて、引退なんてバカな事考え直させて・・・・それから・・・・・と考えていると、見慣れた黒塗りの車が近付いて来る。

やっと来やがった・・・・と、スピードを落として停止した車の後部座席を覗き込むと、そこには越智はいなかった。
長い間に顔見知りにもなった運転手が降りてきて、怪訝そうな表情のヒカルに向かって丁寧に頭を下げた。

「進藤さん、長い間お世話になりました。」

あ、いえ・・・と口の中で呟きながらもヒカルは必死で越智の姿を探した。

「あの・・・・越智は・・・・?今日これから登院だって聞いてたんですけど。」

それを聞いた運転手がほんの少し心苦しそうな表情を浮かべた。

「実は予定が変わりまして・・・・・一時間前にはこちらに。もう挨拶が済んだので迎えを頼むと連絡が入ったところです。」

あのヤロウ・・・・・・・!!!


予定が変わったわけではない。
最初から判っていて先回りをして、さっさと帰るつもりだったのだと、ヒカルには直ぐに判った。

「まだ中ですよね!」

ヒカルの問い掛けに運転手が頷く。

「ロビーで待っていると、そう仰ってました。」









ロビーの、いつも越智が座っている場所にその姿はあった。
ヒカルの凝視に気付いたのか、ぼんやりと辺りを漂っていた越智の焦点がヒカルに絞られた。

「・・・・・・随分早かったんだ。」

まるで他人事のような越智の言葉にヒカルが怒鳴り返した。

「オマエは30分後に来るんじゃなかったのかよ!!」

「君に会いたくなかったから時間をずらした。」

身も蓋もない越智の言い方にヒカルは絶句した。

「・・・運転手のおじさんがせっかくウソまでついてくれたのに、オマエはそれかよ。ああそうかよ。そんなにオレに会いたくなかったのか。何でだ!?・・・・・・何でじゃねえよな。会いたくないならオレが言う事判ってんだろうな。」

ヒカルが、越智が着いていたテーブルにドンと両の手の平を押し付け、その顔を睨みつけた。

「・・・・・・辞めんなよ。」


沈黙を破ったのは越智だった。

「悪いね。もう決めた事なんだ。」

「何で!」

越智がゆっくりと立ち上がった。
二人で立ったまま睨み合うような形になると、ヒカルが頭一つ小さい。

「・・・・上から見下ろすな。」

憮然と呟くと、越智がくすりと笑った。

「対局の時はいつも正座だったからね。それに僕は君と並んで歩いた事もなかった。」

そう言うと窓辺に向かって歩き出す。
ヒカルに背を向けたまま越智はガラスに当たる雨粒を指で辿っていた。
髪型は相変わらずなのに、いつの間にか越智の頭は体とバランスの取れた綺麗な形に整い、そこだけ妙に少年ぽさを残したうなじがすっと伸びている。

キノコ頭とか・・・・・バカにして悪かった・・・・
と、激しく的外れな謝罪を口にしようとヒカルが言うよりも早く、越智が口火を切った。

「ねえ進藤。僕は君が嫌いだったって知ってた?」

「・・・・・・え?」

突然の問いにヒカルは言葉に詰まる。

「え・・・・・そりゃ・・・・・あんまり好かれてはないだろ、とは思ってたけど・・・・・・・。」

「大嫌いだったよ。」

振り向きもせずに続ける越智に、ヒカルは言葉を失ったまま視線を床の上に彷徨よわせた。
キノコ頭とか言ってたからか?
あれはオレなりの一種の・・・・愛情表現だろうが。
面と向かって吐き出された言葉にヒカルは躊躇えた。

「・・・・・・ショック?そうだよね。君はそういう人だもの。」

「そういう・・・・って・・・・・・何?」

「僕が棋士を続ける条件はね、大学に進んでなおかつ、卒業までに何かのタイトルを取る事だったんだ。」

突然話が変わったにも拘わらず、ヒカルはその条件に食い付いた。

「待てよ越智!それならまだ何とか親説得出来るだろ!いいとこまで行ってんだから!あ・・・・だから大学院なのか?それで・・・・・・!」

「そんなに甘くないよ。手土産もなしで親の会社に居候するなんて肩身が狭いからね、これから法科大学院へ進んで、企業弁護士になる。」

「何だよそれ!タイトル取れなかったら親のスネかじるから、だから大学も行ってたのかよ!そんなの辞めろってば!頑張れよ越智!オマエだったら・・・・・!」

「僕が君を嫌いなのはね。」

そう言うと越智はくるりと体を反転させ、窓枠に体をもたせかけたままヒカルの目を見詰めた。

「その世界の主役になるために生まれて来た人間の、無意識な傲慢さが我慢出来なかったから。」

難しすぎてよく判らない、とヒカルは思った。

「判らない?そうだよね。君は意識していないんだから。だけど、だったらどうして自分の世界を守るために、こうやって必死に僕まで引き止めようとする?いつまで君の回りに皆がいなければ我慢できないの?
君が主役の世界は、君にとっては居心地のいい場所かもしれない。でも、どうしてそれを他人にまで押し付けようとするんだ。」

「だって・・・・それは越智・・・・・・お前だってずっと頑張って・・・・・・」

「・・・・・・・頑張っても僕はここでは主役になれないんだ。」

越智は薄っすらと笑った。

「僕の事を恵まれていると思う人間が多い事は知っている。でも僕はそれを自覚している。僕に言わせれば・・・・・・・本当に恵まれていたのは君だ。」

「・・・・・・オレ・・・・・?」

「ここは君の場所だ。だから皆が君を意識する。関心を持つ。だから君は誰かから無視されたり馬鹿にされたりするとそれが我慢出来ない。・・・・・結局、塔矢アキラも高永夏を君を意識し過ぎる余りの行動だったんだろうけれどね。
そして、君はここで誰からも嫌われないんだ。僕がひと言『嫌いだ』と言っただけでそんなにショックをうけている。だから・・・・・・僕は君が嫌いなんだ。」


「お前が嫌われるのはお前のせいだろ!性格悪いし!カンジ悪いし!!おまけに負けるといつでもトイレに引きこもって壁叩いてさ!!!」


しまった言い過ぎたか、とヒカルは思った。
けれど越智は穏やかに返事をする。

「あれはいい修行になったよ。どんなに頑張っても勝てない。どんなに頑張っても誰も僕を意識しない。そして、どんなに壁を叩いても何一つ変わらない。それが判るまでに随分時間がかかった。」

「・・・・・・・越智・・・・・だって・・・・オレ・・・・・お前もずっと一緒に・・・・・・」


越智が何を言いたいのか、正直な所ヒカルにはよく判らなかった。ただ一つ判るのは、越智が今この世界を、自分を含むこの場所を捨てて行こうとしている事だけだった。
そして、ヒカルはそれをとても淋しいと思った。


「最後に君と話が出来てよかった。僕にとって君との決別がこの世界との別れだ。お互い進む道は違ってしまうけれど、僕は僕の世界で主役になるよ。」

何だか気持ちが悪いくらいに爽やかだ、とヒカルが思うような表情を浮かべた越智は、右手を差し出しかけて、それから思い直したようにその手を下げた。


「さよなら、進藤。」


さよなら、僕の少年時代、と越智は心の中で思う。


「待てよ!越智!携帯の番号!!!」


ヒカルは、自分が越智の携帯番号もアドレスも知らない事に思い至った。

「また連絡する。」

しれっとした越智の言葉だった。
ウソだ、とヒカルは思い、越智もまたヒカルがそう悟った事を知っていた。


「泣くなよ、進藤。」


越智の右手がもう一度持ち上がって、ヒカルの頬を一度だけ撫でた。


「君は、側にいる誰かがいつかはいなくなる事を、ずっと前から知っていただろう?」


え?とヒカルは顔を上げた。
側にいた誰かがいなくなった事を、誰も知らない筈なのに、と思う。


「なん・・・・・・で・・・・・?」

「何となく。君は誰かを失くした事があるような気がしていた。ずっと。」

呆然としたようにヒカルが越智を見詰めた。

「誰がいなくなっても、君は、君の世界を極めるんだ。」


どうして自分は泣き止む事が出来るのだろうか、とヒカルは思った。
本当に悲しいのに、もう自分は佐為を失った時のように、場所も憚らずに号泣する事も出来ない。これが、大人になって行くという事なのだろうか。
越智を引き止めたいと思うのに、越智の気持ちが判ってしまって、もうあの子供の頃のように時間を戻して欲しいと無理な願い事も出来なくなってしまった。

「・・・・・・誰がいなくなっても・・・・・?」

「うん。」

「オレはいつか一人になるのか?」

「うん。きっといつか。」

「それが判ってて、お前はオレを置いていくのか?」

しょうがない、とでもいうように越智が笑いながらため息をついた。

「強くなれ、進藤。僕は君が嫌いだけれど、それでも・・・・・・・」


それでも何?とヒカルが尋ねるより前に越智は背中を向けてしまった。

「さよなら。」

呟きにも似た越智の言葉が微かにヒカルの耳に届いた。









「それでも君の碁を心から愛していたよ。」









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