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成長痛(オチヒカ子)


「ねえ、越智先生ってさ。」
女流トーナメントが行われた後のレセプション会場では、あちこちで女流棋士達のお喋りが喧しい。


「せんせえ!?あんなヤツ、越智でいいじゃん、越智で。あと、おっちーとかさあ。」


あまり良く似合っていないピンクのスーツ姿の女性の毒舌に連られて一斉に笑い声を上げた朋輩たちに、最初に発言した一人がしいっと、唇に人差し指を当て、声を潜める。


「実はさ・・・・・・・あの、越智商会の御曹司らしいわよ。」


全員が、げっとひと言漏らしたきり言葉に詰まり、それから横目でちらちらと周りの様子を伺いながら、興味深々、と言った顔つきで質問を始める。


「まさか、だって、あの?」


「だってそれなら棋士なんてしてるワケないじゃないの。あらでも、社会勉強してらっしゃるのかしら。」


本人の越智康介もこの場にいない、噂がガセかもしれない、というのに、早くも言葉遣いを改め始めた現金な一人が、あどけなく首を傾げた。

「バカバカしい・・・・・。それならもっと早くに噂になって皆知ってる筈でしょ?大体アナタ、そんな話どこから聞いたのよ。」

最初にあんなヤツ発言をしてしまった行きがかり上、いきなり態度の急変もできずに、それでいて顔に『しまった出遅れた、何よアンタタチだって笑っていたくせに』と焦りをそのまま貼り付けたピンクのスーツが突っかかった。

「明日発売の週間夕日、ホラ、うち神田でしょ?一日早く売ってる場所がいくらでもあるのよ。そしたらさ・・・・」

「あ!あの巻末のグラビアでしょ!?」

巻き髪を揺らして一人が叫んだ。

「『ウチの跡取り』ってやつ!」

最早声が裏返っている。
それも無理はない。週間夕日毎週の特集『ウチの跡取り』には、各界の著名人とその孫がツーショットで紹介される。歌舞伎の大御所、高名な指揮者、世界的な動物学者・・・・・それらの有名人に混ざって紹介されても何の遜色もない程、越智商会の名は全国津々浦々に知られていたし、その財力、磐石たる経営、斜陽久しい日本経済における唯一の勝ち組とまで言われる名門の跡取りが、まさかの『おっちー』だと言うのだ。

「どどどど、どうしようあたし!こないだ指導碁して貰ったのにお礼をお返ししてない!」

「あらあたしだって!棋院の近くのカフェで席譲って貰ったことあったのに!」

「アンタの事なんて覚えてやしないわよ!」

「何よ!おっちーとか言ってたくせに!!!」

余りの盛り上がりように、周囲が何事か、とその一群を遠巻きにして眺め始めた。
レセプションとは言え、一応は公式行事。主催者も賓客も集まり始めているのに・・・・と眉を顰めた奈瀬明日美が足早に近寄ってさり気なく注意を喚起しようとした所、逆に捕まえられて、腕を引っ張られ、その場に取り巻かれた。

「奈瀬せんぱ?い!越智先生があの越智商会の跡取りだって、知ってました!?」

彼女達の全身から立ち昇る熱気と得体の知れないオーラに、奈瀬の唇はひくついた。

「あ?ああ・・・・・・越智?ああ、そうだけど。何よ、知らなかったの?」

「知りませ?ん!」

   私に媚売ってどうすんのよ、この子達・・・・・。

奈瀬は心の中で悪態を吐いた。

   大体越智も越智よね。あんな風にいつもすかしてるから、こうやって時々ブレイクすんのよ。

越智康介が大財閥の御曹司で、いずれその跡を継ぐ、という風評は何年かに一度棋院を席巻する。その度に、知らなかった者たちは大仰に驚き、しばらくは越智を遠巻きに、または妙に親しげに近寄って、と、とにかく越智を意識して止まない。
けれど、越智本人は至って淡々と、否定も肯定もせずにいつも通り無愛想に振舞うので・・・・やがては誰もその話題を口にしなくなる。
それが恒例になり、時期が過ぎれば周りも取り立てて思い出しもせず、またわざわざ人に伝え広める事もせず、そしてまた次のブレイクがやって来る。

「どうして教えてくれなかったんですかあ?奈瀬せんぱーい。」

くねくねとシナを作った、20歳そこそこの巻き髪に、奈瀬は苦笑する。

「どうしてって・・・・・・」

   教えたって、アンタ達には全然関係ないから。

と言ってしまってよいものかどうか、一瞬躊躇う。

「越智にとっちゃ、そんな事は大事な事じゃないみたいよ。越智が将来どうするか知りたいんだったら、アンタ達、直接聞けばいいじゃない。」

   鼻も引っ掛けられないだろうけれど。

ええー、アタシ聞けなあい!私、聞いちゃおうかなあ・・・・ズルイわよ、アンタ!
きゃあきゃあと湧き上がった黄色い歓声に、奈瀬は一人ごちた。

   まあ、いいわ。何も私がやり手ババアみたいに、この子達を整理してやる義理もないし。
   だいたい越智がいつまでもあんな風にすかしているから・・・・・・

奈瀬の気持ちはまた還元する。
ヒカルと越智が付き合っている事を知る者は少ない。
気付いて・・・・・・・それを口に出す事が出来ずにいる奴らがちらほら・・・・・、と奈瀬は踏んでいる。
あの二人が並んで歩いていても、電車に乗り合わせていても、誰も連れ立っているとは思わない。以前ヒカルが奈瀬に、笑いながら話した事すらある。越智と一緒に電車に乗っていたのに、痴漢に合いそうになった、と。

「・・・・・・・・・に越智先生って、背も高いし?。」

   そう、越智はある日を境に急に大きくなった。

越智が大きくなるに連れて、ヒカルと越智の間にあった不釣り合わなさは影をひそめた。
今なら奈瀬は、あの二人に「お似合い」という言葉を与えても不足はないと思っている。越智の身長が急激に伸び始めた頃から、ヒカルと越智が共にいるところを奈瀬は頻繁に目にするようになっていた。

「・・・・・・・胸板だって結構厚いでしょ?メガネ取ると案外いい男だったりしてさあ。」

けれども、越智自身が、自分がヒカルに相応しいと今でも思っていない事も明白だった。




「だからそこがいいんじゃん。」

ヒカルが言っていた。

「越智がオレに初めてキスした時の話、聞きたい?」

薄い唇を歪めて笑ったヒカルは、本当に越智の事が好きなのかと、奈瀬は首を傾げた。

「・・・・・・聞きたくない。」

二人がいつから付き合い始めたのかを奈瀬は知らない。けれども、彼らの淡々とした付き合いは彼らがプロになって間もなく、案外早い時期に始まっていたのではないかと、奈瀬は推測していた。

「どうせ、越智の方がアンタより小さくて、アンタが無理やり越智の唇を奪ったとか・・・・そんなとこでしょ?」

まさかそこまでの事はあるまいが、彼らのファーストキスなど奈瀬にとって想像の域を超えていた。

「んーと、そうでもないよ?越智の方がずっとでかかった。だって去年だったし。」




「去年お取りになったタイトル、今年も防衛してらしたわよねえ!」

奈瀬は、その甲高い声に我に帰った。

   キス一つに10年・・・・・・・・・

アンタ達、一体いつから付き合ってんのよ!と噛み付いた奈瀬に、んー、はっきり付き合おうって言われた訳じゃないけど・・・・・15かなあ、16かなあ、とにかくそのくらい、と、そう答えたヒカルに眩暈を感じた日の事は忘れられない。

   アンタ達が、束になってかかっても越智は振り返りもしないわよ。

奈瀬は、明日から始まる本因坊戦のために休養し、『女流』などというある意味客寄せのトーナメントには最早顔を見せる機会も少なくなったかつての院生仲間へと思いを馳せた。






ヒカルが、道端に蹲る越智康介を見たのは、彼女が15歳の冬の日であった。

「越智じゃん!何してんの?こんなとこで。」

気軽に声をかけたヒカルに対して、越智は不機嫌そうな眼差しを一度向けただけで、再び足元の地面を見詰めていた。

雪が雨に変わり、みぞれ交じりの荒れ模様と化した寒い日の夕暮れだった。

「いつものお迎えはどうしたのさ。棋院の前に車横付けしてんじゃん。・・・・・・・具合悪いのか?・・・・なあ、おい、何か言えよ。」

越智に差し掛けた傘を邪険に振り払われ、いくら話しかけても無視のされ通しで流石のヒカルも声を荒げた。

「越智!聞いてんのかよ!オマエらしくないじゃん!何でこんなとこで座り込んでんのさ!」

「・・・・・・・・放って置いてくれないかな。」

漸く、越智がぼそりと口を利いた。
冷たい雨は越智の髪を濡らし、そのまましずくとなって丸い眼鏡の上を辿り頬を滑り降りていた。

「・・・・・・越智?」

何気なく越智の手を握ったヒカルは、その手が氷のように冷たい事に気付いてぞっとした。

「何してんだよ!風邪引くじゃんか!おい!そこのマックでいいからちょっと入れ!」

そのまま越智の手を引いて近くの店先に走り込もうとしたヒカルは、立ち上がった越智がよろめいてもう一度ぬかるみに膝をつく姿に我が目を疑い、漸く事態の緊急度に気が付いた。

「どうした越智!ホントにマジでオマエ、どっか具合悪いのか!?」

蒼白な顔をして叫ぶヒカルに越智が呟いた。

「何でもない。耳元で騒ぐな。・・・・・・・ただ、足が痛いだけだ。」

「足が痛いってオマエ・・・・・」

オロオロと越智の周りを歩き回るヒカルも今はずぶ濡れで、それを見た越智は苛立った声を上げた。

「僕の事なんか放っておけよ!さっさと行けよ!僕に・・・・僕に近付くな!」

確かに越智は愛想のいい男ではなかったが、こんなふうに拒絶されたのはヒカルにとって初めての経験だった。体を丸めてハリネズミのように全身で世界を威嚇している越智を笑っていいのかそれとも慰めてもいいものか、とヒカルは言葉を失った。
二人で、どのくらいそうしていたのだろうか。
よく考えれば、越智はタクシーに乗ろうとして、そして生憎の天気のため行列が出来ていたタクシーを諦め、目と鼻の先にあるバス停まで歩こうとしていただけだった。

越智の視界の中を家路に向かうバスが何台も通り過ぎていった。

ヒカルとて、傘もある、駅は目の前。何も越智に付き合って寒い空の下で共に震えている義理などどこにもなかったのだけれど

膝を着く越智をその場に残して行く事ができなかった。



「・・・・・・・・成長痛っていってさ・・・・・・・・。」

ヒカルの紫色の唇を迷惑そうに眺め、越智は携帯電話を取り出した。そして、短縮ダイヤルひとつで運転手を呼び出し、市ヶ谷駅から棋院へ向かう通りに来るようにと指示を出す。

「時々、手や足が痛くなるんだ。・・・・・・・・病気じゃない。」

   テメエ、車呼べるんだったら、何でさっさと呼ばねえんだよ!

喉元まで出かかった問いは、やがて到着した暖かく滑るように走る車中に溶けていった。




それからヒカルは、越智が対局の途中手首を揉んでいる姿や、休憩時間に足を伸ばして摩る姿を頻繁に目にするようになった。それはヒカルが気付いていなかっただけで以前からだったのかもしれない。そしてヒカルは越智が特に辛そうな日に限って自家用車を使わずに登院している事にやがて気が付いた。
気が付いてしまってからは無関心でいられなくなった。
人気のある所では何気ないふうを装っているくせに、人目がなくなった途端にその場に座り込む越智を何度も見た。

「何やってんだよオマエ!」

初めて蹲る越智と遭遇してから半年、とある初夏の日についにヒカルの癇癪が炸裂した。

「何ムリしてんだよ!棋士だって仕事なんだからさ、辛かったら休んだり、あと・・・・・車で来たっていいじゃんか!見てるこっちの方が落ち着かねえよ!」

「・・・・・・・君に見ていてくれと頼んでなんかいない。」

同じバス停だった。
この頃には、越智はもう棋院からバス停までの道程で座り込む事はなかった。

「何度も言ったろ?放っておいてくれないかな。君が近付くと痛む場所が増える。」

それでも口を利いてくれるようになっただけマシなのか、とヒカルはため息をついた。
こうして誰も見ていない時にそっと近付くような真似をするようになってどのくらい経つのだろうか。そして自分は何故こんなにも越智を放って置けないのだろうかと、ヒカルは自問していた。

一年後、再び巡ってきたある夏の盛りの日、越智はヒカルに

「すまない、ちょっとだけ肩を貸してくれ。」

そう頼んだ。

越智の悔しそうな顔がヒカルには嬉しかった。
越智が自分を頼ってくれた事が信じられない程嬉しかった。




「なあ、何で?」

二人がベンチに腰をかけて一休みしながら会話を交わすようになるまでには三年かかった。

「何で、って何が?」

越智は公園のベンチでなど何も飲まなかったので、ヒカル一人がコーラを買って喉を潤していた。

「何でそんなに意地張って頑張ってんの?」

運転手は、両親は越智の変化に気付いていないのだろうか。それとも気付いて知らぬふりをしているのだろうか。こうして座っているだけでなく、並んで立っても二人の身長差はそれ程なくなって来ていた。

「・・・・・・足腰鍛えておかないとね。」

越智の言う事は相変わらずよく判らなかった。遠目に、こちらへ向かって手を振る和谷が見えた。

「僕はもう行く。・・・・・・・・言っただろ?君が側に来ると痛む場所が増えるんだ。」

越智はヒカルに笑いかけられるようになっていた。




スーツを着た越智と銀座ですれ違ったのはいつの事だったろう。
あの時の、越智の嫌そうな顔をヒカルは一生忘れられない。

「何してんだよ、リクルート?」

そう揶揄かったら鼻の横をひくつかせて「仕事だ。」と憮然と交わされた。
越智が棋士としての対局のほかに、自分の家の仕事との二足の草鞋を履き、そしてそれを誰にも口外していない事を知ったのは、それから更に一年後だった。

「自分の力じゃないのに、背後にある物のおかげで世に出られる気持ちなんて、君には判らないだろうけれど・・・・」

越智の努力を何年も見てきたせいだったろうか、ヒカルはごく自然に口にする事ができた。

「判るよ。オレにはすげえよく判る・・・・・・・・・」

驚いたように越智の目が広がって、何かを言い返そうと開いた口は、ヒカルの目の前で静かに閉じた。

「ふうん。」

越智なりの精一杯の譲歩である事はヒカルに十分伝わった。




第五局にまでもつれ込んだ天元戦で、越智は初のタイトルを獲得した。
ヒカルはその対局を中継モニターで息を呑んで見詰めていた。
越智が勝利を掴んだ瞬間、彼は今まで誰もが見たことがない程深々と頭を垂れた。そして、顔を上げる瞬間、いつもなら真っ先に整える眼鏡の蔓に手を添えず、ヒカル以外の誰が目にし、気に留めただろうか、細い目の奥を、自分自身の力を信じられないような、それでいて嬉しくてたまらないといった表情で一度だけ緩めた。
再び眼鏡を掛け直した越智は、いつも通りの不遜な表情に戻っていた。

   やったな越智。
   いいのに。
   もっと喜んでいいのに。
   オマエの力なのに、何でかな。

今すぐ駆けつけて背中をどんどんと叩いてやりたい衝動に駆られ、そしてヒカルは越智の勝利を我が事のように喜んでいる自分に気付いた。





「メガネ・・・・・・返してくれないかな。」

ベッドの中から不機嫌な越智の声が聞こえて、ヒカルはそちらを見た。

   つまんねえ、フツウの顔に戻っちゃってんの。

ヒカルは手にしていた越智のメガネを放り投げた。

タイトルを手にした越智は、実家を出てマンションで一人暮らしを始めた。あの、15歳の頃から越智が一人で養っていたのは体力だけではなかったのだとヒカルが気付いたのはいつ頃だっただろうか。

天元のタイトルを手にした越智と初めて会った日、ヒカルはその気持ちのままに駆け寄って越智に抱きついた。そのまま後ろに倒れそうになったヒカルを抱きとめた腕は思った以上にしっかりとしていて、ヒカルは、ああコイツ案外頼りになるかも、とぼんやり思った。
越智はヒカルに怪我をさせなかったけれど、反動でメガネはずれた。
越智の両手はヒカルを支えていて、メガネを直す暇はなかった。

   あれ?越智。

自分を両腕で支えた越智の目を見たヒカルは思った。

   オマエ、そんなに嬉しいの?
   オレに抱きつかれて、そんな目するの?

   天元取った時とおんなじ顔じゃん。

笑い出したヒカルを、越智は嫌そうに離した。


越智のマンションに出入りするようになり、頻繁にそのメガネを顔から取り上げるチャンスを得るようになると、ヒカルは越智ならではの『嬉しくて堪らない』という目付きを何度も見て、その度に自分もぞくぞくするような気持ちの良さを感じた。

だから今も。

ベッドに入り込んで迷惑そうな顔の越智からメガネを取り上げると、突然剥き出しの越智の気持ちが一瞬だけ現れる。
何度寝ても、越智はいつもヒカルが自分の腕の中にいる事が信じられないような、それでいて嬉しくてたまらない、といったあの顔を見せてくれる。

   だからそこがいいんじゃん。

ヒカルは奈瀬の『ぜんぜんわっかんない』といった表情を思い出していた。

   越智は今でも、これからも、今度は人の三倍努力を続けるんだぜ?

   ・・・・・・・オレの事が好きだから。




越智がフレームをきちんとたたんで、メガネをサイドテーブルの上に置いた。

「明日からの、本因坊戦。オレ、勝つよ?」

そう笑ってヒカルが越智の横にするりと入り込むと、上からかぶさるように抱きしめられた。




自分の頭の上にあって、見えない越智の目は、またいつもの信じられないような表情を浮かべているのだろう。
ヒカルは小さく笑った。  








タグ : オチヒカ子

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