スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

シャーロット・リー


「ドナルド、今日のお茶の時間に誰が来ると思う?」

朝食の席で、思わせぶりにジャネットが言った。
さあ、と別に興味もなくドナルドが生返事をする。
嫁いでジャネット・ボーンウェルとなったカーマイケル家の長女は、主人の長期不在のために実家への数日間の逗留を決め込んでいた。最近は活発に奉仕活動に励んでいるらしく、実家へ戻っても精力的に出かけては顔を広げている。
あちこちの教区の牧師達、慈善活動に積極的な奥様方、救貧院のバザーのために針仕事をするお嬢様方、どれもドナルドにとっては何の興味も湧かない対象でしかない。

「このあいだの、教会の奉仕活動で会ったのよ。最初は、何て綺麗な人かしらと思って見ていたんだけど………本当にご熱心で、汚ない子供達に触られても嫌な顔一つしなくてね、それで、後でお茶を頂いた時に思い切ってお名前を聞いてみたの。そしたら!」

ジャネットからあらましを聞いていたノーラが、我慢できずにそこで口を開いた。

「シャーロット・リーだったんですって!ロッティーよ!ねえ、ドナルドあなた覚えてる!?」

ドナルドが思わず顔を上げると、満足そうな表情のジャネットと目が合った。

「ロッティー・リー?あのおチビの?」

ノーラが馬鹿にしたような顔でドナルドを見た。

「あなたの方がずっとおチビだったじゃないの。勿論今もよ!ロッティーは確かセーラより3歳年下でしょ?セーラはジャネットの2歳上なんだから………」

「分かってるよ!」

ドナルドが忌々しげにノーラを睨みつけた。

「そう言われてよくよく見たら、本当に、確かにロッティーだったわ。綺麗な金髪の巻き毛もえくぼも、忘れな草の瞳の色もそのまま。でも、あんまり雰囲気が違っちゃって分からなかったのね。だって、うちに遊びに来ていた頃は10歳かそこらだったし………セーラ達がウェスト・ケンジントンに越してしまうまで、一年くらいしかなかったもの」

当時を思い出すようにジャネットが胸に手を当てて続けた。

「名前を言ったら私達の事もすぐに思い出してくれたわ。セーラがここに住まなくなってからは遊びには来なかったけれど、それでも長い間お隣のミンチン女学院にいたんですものね。とても懐かしがってくれて、それで遊びに来てくれる事になったのよ」

「ドナルド、今日の午後は何か予定があったんじゃないの?」

ノーラがほんの少しいじわるそうに尋ねると、ドナルドは不機嫌そうに首を振った。

「セーラとは今も手紙のやり取りをしてるって言ってたわ。セーラの事も何か聞けるかもしれない。何しろ我が家には、セーラの事だったら何でも聞きたいって人がいますからね」

ジャネットの言葉にドナルドはほんの少し頬を染めたが、セーラの音信を尋ねたいと思うのは家族の誰もが同じ思いだった。

セーラがその養父キャリスフォードと共にアメリカに渡ってから何年もの歳月が流れていた。初めのうちこそ両国を行ったり来たりしていた二人だったが、今もケンジントン・パレスのすぐ近くに残してある瀟洒な邸宅に彼らが戻る事は殆どない。

「本当に、私達はセーラからの便りを待つだけの事しか出来ないんですものね」

ジャネットが恨めしそうに言う。

「ほんと、キャリスフォードおじさまにも困ったものよね」

ノーラが父親の口ぶりをそのまま真似て大人ぶった口を利いた。

「このままじゃセーラは婚期を逃しちゃうわ。しかもキャリスフォードおじさまには、セーラをお嫁に行かせるつもりなんて全然ないんだから」

アメリカに健全なチャリティの根を植えたいのだ、とセーラは常々語っていた。はっきりとした階級や身分制度が残るヨーロッパでは、実際はどうあれ、持てる者が持たざる物を支援しようという教育が脈々と受け継がれている。
差別はある、それは仕方がないという意識を持つ国々と、差別はある、それは正しくない事だという意識を持つ新しい国ではチャリティのあり方も当然変わってくる。
南北戦争も終わり、建て前は自由と平等を謳われる国の中で、どんな形で人々を救えるかとセーラは日々奮闘を続けていた。




………だってあなたも私に施しをしてくれたじゃないの、ギィ・クラレンス。

何もアメリカにまで行く事はないと止めたドナルドにセーラはそう言って笑った。
かつて、彼らがまだ隣同士に住むというだけで何の知己も得ていなかった頃、セーラはカーマイケル家の家族全員に心の中で名前を付けてその存在に心を慰められていた事がある。
その数年の間、セーラの心の中でドナルド・カーマイケルはずっとギィ・クラレンスだった。

姉や弟妹達は自分達に付けられていたというその麗々しい名前―――例えばリリアン・エヴァンジェリン・モウド・マリオンだとかシドニー・セシル・ヴィヴィアンだとか―――に大喜びをしていたけれど、ドナルドにとってはその名は、事もあろうにセーラ・クルーに向かって6ペンスの施しをしてしまったという痛恨の思い出に直結していた。
そして、セーラがあの時の6ペンスを今も大事にしまってある事、長い間ネックレスとしてその首にかけてくれていた事は同時にくすぐったいような恥ずかしいような複雑な思いをドナルドに抱かせた。

悪かったからそれはもう綺麗さっぱりと使ってくれ、と何度言ってもセーラは笑ってその申し出を却下した。

「あの時の、あの年のあなたにとって、6ペンスを赤の他人に渡すって事がどれほど思い切った決断だったか、それを忘れないように私はいつまでもあの6ペンス玉を大事にとっておくわ」

………あの6ペンス硬貨は今もセーラの手元にあるのだろう、ドナルドはぼんやりとそう思った。

「おじさまは楽しくて仕方がないのよ。セーラと一緒に困った人達のために毎日ああしようこうしよう、って。セーラがお嫁になんて行っちゃったら、おじさま淋しくて次の日に亡くなっちゃうわ」

ジャネットとノーラのおしゃべりはまだ続いている。

「……ほんとにねえ……。最初にうちにいらした頃なんて今にも死にそうな……」

不謹慎な言葉遣いをしたノーラに、母親が厳しい視線を投げつけ、姉妹は思わず顔を見合わせて肩を竦めた。

「……じゃあ、訂正。うちにいらしてセーラが見つからなかった頃のキャリスフォードおじさまは、あのまま行ったらスクルージ一直線だったわ」

40年ほど前に書かれたというそのベストセラーは、約半世紀が経った今でも読み継がれていた。ノーラの軽妙な切り返しに食卓は穏やかな笑いに包まれ、その名残りの中ドナルドはそっと席を立った。






馬車を降りたロッティーは、カーマイケル家の玄関に向かう前に思わずその隣に建つミンチン女学院に目を向けた。相変わらずいかめしい趣のその建物と敷地内は、心なしか自分がいた頃よりも手入れが行き届いていないような印象がある。

………無理ないかもしれない、ロッティーはそう思った。
親同士、その親が親しくしている仲間同士、更にもっと大きなコミュニティへと、あのまるでおとぎ話のようだったセーラ・クルーの逸話は広がって行ったに違いない。セーラ自身が自分が受けた仕打ちを決して他人には語らない人物だったとしても、あの半分子供のようなセーラの養父は、出合った後のセーラを愛しく思えば思うほどセーラに辛く当たったマリア・ミンチンを許しがたく思ったようだった。
大富豪の上篤志家のキャリスフォード氏の機嫌を損ねてまで我が子をミンチン女学院へ通わせようとする父兄も多くはなかっただろうし、ましてや特別寄宿生であった生徒が親が亡くなった途端に手の平を返したように下働きとしてこき使われたという話には多くの母親達が眉を顰めた。

セーラが去った後の学院は、実はロッティーにとってそれ程居心地の悪い場所ではなかった。あの事件をきっかけに、最初に変わったのはミンチン先生とアメリア先生の力関係だった。ミンチン先生は相変わらずあの性格のままだったけれど、どこかアメリア先生の顔色を伺うようになった。
それと同時にアメリア先生も自分が言いたい事を言うようになり、学院の中の空気は随分と変わった。
実際、ある程度雰囲気が改善されなければ、生徒が激減して経営が立ち行かなくなる所だっただろう。

そしてロッティー達にとって幸運だった事に、真っ先に社交界の噂に踊らされて娘を転校させたのがラヴィニアの両親だった。ラヴィニア自身もセーラの幸運を毎日窓から眺め続け、周囲にはひそひそと陰口を叩かれ続ける毎日に嫌気が差していたのか、嬉々として学院を去って行った。
続いて居心地の悪さに耐え切れず逃げ出したのがジェシーだった。
ロッティーやアーメンガード、その他平凡に過ごしていた他の生徒達にとって、セーラに辛く当たっていたメンバーの一掃はそのまま自分達の安全にも結びついていた上、その頃には院内の空気も随分穏やかになっていたため、親と相談をしながらそのまま残る者も多かった。

それでも新入の生徒は確実に減って行き、その収入の激減が容易に想像される現在の佇まいには、どこか胸を突かれるものがあった。


……アメリア先生は、今も頑張っていらっしゃるでしょうに。

そう考えて首を小さく振ると、ロッティーはカーマイケル家の玄関に至る石段を昇り、ノッカーを叩いた。




実際は叩くまでには至らなかった。
カーマイケル家の面々は、馬車の音が聞こえるか聞こえないかのうちに玄関に揃ってロッティーを待ち構えていたのだ。けれど、馬車が止まり、ロッティーが降り立った時真っ先にドアを開けようとしたノーラを、ジャネットが静かに制した。
初めは不思議そうに首を傾げた面々は、窓ガラスを通してロッティーが懐かしげにミンチン女学院を眺める様子に合点が行った。

「あそこでセーラと暮らしていたんですものね」

ノーラがそう言うと、ジャネットが静かに頷く。
カーマイケル家の兄弟達の中で、ジャネット、ノーラ、ドナルドの三人はセーラに特別な愛情を感じていた。下の弟妹達は確かにセーラの事を大好きではあったものの、当時余りにも幼すぎたために、上の三人がセーラに感じた尊さを感じ取るまでには至っていなかったのだ。

「さあ、お迎えしましょう」

長い物思いの後、こちらに向かってやって来るロッティーが窓越しに見えた。
石段を上がって、一段、二段、三段。
もう少ししたらノッカーに手が届いて………。
そう考えられる絶妙のタイミングで三人は玄関ドアを大きく開き、腕を広げてシャーロット・リーの訪問を歓迎した。




「ここは?子供部屋だったお部屋ね」

ロッティーが通されたのはかつて遊びに来た時に通された馴染みのある部屋だった。けれど、当時子供部屋として使われていた面影はもうどこにもない。明るいクリーム色だった壁は落ち着いたグリーンに塗り替えられ、マホガニーの腰壁で装飾が施されていた。窓にはどっしりとしたダークグリーンのビロードのカーテンがかけられている。

「ここはね、今はドナルドちゃんのスタディなのよ」

からかうようにノーラが言った。

「まあドナルド、本当に大きくなったのねえ!」

ロッティーに言われたドナルドは今度こそ顔を真っ赤に染めた。
あのチビ、と自分が言ったロッティー・リーは信じられない程綺麗な女性に成長していた。そう言われて思い出してみれば、確かに小さな頃も綺麗な子供だったのかもしれない。当時はその余りのセーラに対する甘えぶり、依存の仕方に、顔の美醜云々以前に、何だか割り切れないモヤモヤとした感情を抱くだけだった。

……セーラはあんなに苦労してたのに、おまえはただ甘ったれてただけじゃないか、とか何とか。

当時の自分の気持ちを今冷静に考えてみると、ロッティーと同じくらい、いやそれ以上に甘ったれた子供だった自分に対する苛立ちをロッティーにぶつけていただけなのかもしれない。

「………セーラがこの部屋が好きで………。うちに来るといつもこの部屋で話をしたがったんです。だから」

顔を上げてそう言うとロッティーと視線が合った。
その時ドナルドは、あの頃同じように子供過ぎた自分達に共通する何かを感じ取ったような気持ちになった。

「さあさあ、座って!お茶にしましょう」

茶器が運ばれて来ると、ジャネットが朗らかに言った。暖炉には赤々と火が熾され、そのままラグの上に寝そべって話し始めれば、10年以上の月日があっという間に無かった物のように感じられそうだった。
残念ながらセーラに関しては、ロッティーもカーマイケル一家も殆ど同じくらいの情報しか持っていなかったけれども、ロッティーはアーメンガードやベッキーとも音信があった。

「アーメンガード?まあまあ!お元気なの?」

カーマイケル家の面々にとって、セーラの出現はまさに突然頭の上に一等星が輝くような出来事であった。セーラは、その生い立ちも、苦労も、そしてずっと探していたのに実は隣に住んでいた、という見つけられ方もあまりにもドラマチックで、その上セーラ自身が持つエネルギーと意思の強さは彼らを圧倒した。
事実、これほど美しいロッティー・リーの子供時代がカーマイケル家の子供達の意識から殆ど抜け落ちていた事を考えると、アーメンガードの存在など無きに等しいと言っても過言ではなかった。

「ええ、お元気よ。アーメンガードはもうお母さんなの。そして、アーメンガードの娘の名前はセーラっていうのよ!」

けれど、ロッティーが誇らしげにそう言うと、ドナルドの書斎は歓声に包まれた。
最初の娘にセーラと名付けずにはいられない、あの愚鈍で実直な姿がみるみるうちに全員の瞼の裏に浮かんだ。

「アーメンガードは、きっといいお母さんなんでしょうね」

子供のいる家庭という物をそろそろ夢に描き始めたジャネットがうっとりと呟いた。

「ええ。ええ、そうなのよ。アーメンガードは本当にいいお母さんなの。私には……お母様がいなかったでしょう?だから、べビィ・セーラを見るといつも本当に羨ましくなるわ」

そう言いながらもロッティー悲しそうではなかった。いたずらっ子のように目をくるりと回すと「私が、『お母様がいない』って癇癪を起こしながら暴れまわった話、セーラから聞いてない?」と尋ねた。
それから彼らは、ロッティーが、アーメンガードが、他の生徒達が、セーラが生徒だった4年間の間にどれほど迷惑をかけ、どれ程助けて貰ったか、セーラが下働きになってからの2年間も、どれほど頼りにしていたかを泣いたり笑ったりしながら語り続けた。

「ああ、もうやめて!こんなに笑ったのは何年ぶりかしら!」

ついにジャネットが音を上げた。
ハンカチで目元を押さえながらまだ笑いの発作が止まらない。そして、彼らは一様に、かつてセーラを取り囲んで、その口から語られる様々な出来事に聞き入っていた日々を思い出していた。その上ロッティーは、セーラが決して口にしなかった他人の滑稽さや、セーラ自身が受けた酷い仕打ちまでも克明に説明するものだから、笑うのも泣くのも大忙しだった。

「ごめんなさい、ロッティー。私、少し休んでいいかしら。それから……今日は必ずお夕食もご一緒してね」

ハンカチで顔を扇ぎながらジャネットが立ち上がった。

「ノーラ、お夕食の事でちょっとお母様と相談をしましょう」

そう言って下の妹を促す。
ノーラは頷いて一緒に立ち上がった。

「ごめんなさい、ロッティー。ほんの1時間ほど、ドナルドじゃあお相手できないかもしれないけれど、私達お夕食の打ち合わせをして来るわ」

ノーラがそう言って部屋を出、そこにはドナルドとロッティーが残された。






「打ち合わせは必要ないのよね」

廊下を歩きながらノーラが言った。
大体において、来客の多いカーマイケル家では、突然夕食のメンバーが一人増えたぐらいで何かを考えなければならない事などあり得なかった。使用人たちも心得た物で、午後の来客と室内の盛り上がりようを一瞥しただけで、既に食器を一人分多く磨き始めているに違いない。

「モーニングルームに行きましょうか」

ジャネットがノーラを誘った。









家の東側に位置する部屋は、朝日が気持ちよく差し込むので「モーニング・ルーム」と呼ばれていた。冬の寒い時期、一家は揃ってそこで朝食を取る事が多かったが、午後の終わり、もう夕方近くにはその部屋には近付くものもいなかった。

「もうお茶はいらないわよ」

ノーラがいたずらっぽくそう言うと、ジャネットも微笑んだ。

「ねえ、ノーラ」

そのままジャネットが窓の外を見る。

「何?」

姉が何の話をするのか、大体の見当をつけながらノーラが言った。

「可哀想だけれど、セーラは無理よね」

ジャネットがそう言うと、やはりそれか、というようにノーラが首を振った。

「本人なりに努力している所がまた何ともね。………姉の私が言うのも何だけれど、ドナルドは本当にいい男に成長したと思うわ。だけどセーラはね………」

二人は顔を見合わせて同時にため息をつく。

「器が違いすぎるわ。ドナルドじゃあとても無理よ」

ジャネットもノーラも、押しなべてカーマイケル家の子供達は皆聡明な人間だった。幼い頃、まだその幼さゆえにセーラに6ペンスを恵んだ弟と、それを受け取ったセーラを見た姉達が、瞬時にあの子は乞食ではないと判断したのもその現われの一つだ。

「悪い子じゃないんだけど、まだまだ思慮に欠けるというか……」

「見ているとハラハラすると言うか……。あれじゃあセーラのお荷物になるだけだわ」

「私が男だったら、って思った事もあるのよ」

ジャネットがうふふ、と笑った。

「でも、私でもきっと役不足だわ。セーラにはとても釣り合わない」

「あの人は特別なのよ」

とノーラが言った。

「だからね、ドナルドには手を取り合って成長して行ける誰かが見つかればいいと思っていたの。ずっと。無駄にセーラに憧れているよりも、誰かと一緒に何かを目指して、例えばセーラが力を貸して欲しいという時が来たら、それに応えられる人間になれればいいなあ、って」

「なるほど、だからロッティーなのねえ。お姉さま、案外策士だったんだわ。驚いた」

ロッティーに偶然出会えた事は幸運だったとジャネットは思っていた。

「ロッティーはねえ……。驚くほど成長したわ。今日聞いて初めて知ったんだけれど、ダテに4歳からセーラが母親代わりしてたんじゃない、って感じ。あの人にとって、ミンチン女学院に入学してセーラに出合った事は恐ろしいほどの僥倖だったと私は思うわ」







「あ……ええと、ベッキー………は?」

二人きりで自室に残されたドナルドは、招いた側の良識として必死で会話を繋いだが、実はベッキーについては詳しく知らなかった。
けれどセーラがこの家に住む事になった最初の夜、一番最初に心を砕いていたのがそのベッキーという少女だった。
「例え一晩でも、彼女に辛い夜を過ごさせたくない」
そう言ったセーラの決然とした瞳は、今でも思い出せる。

「ベッキー?レベッカ・イングラム?」

その耳慣れない名前にドナルドが当惑したような表情をこぼす。それを見てロッティーが小さく笑った。

「アメリカに入国する時に、氏名を名乗るでしょう?その時にセーラが付けてくれたんですって。二人が新しい生活を始めたウエスト・ケンジントンの、ベッキーが一番好きな並木道の名前なのよ」

そうか、とドナルドは思った。
自分はセーラの事もベッキーの事も、本当に何も知らないのだと思い知らされるようだった。

「ベッキーはね、今では本当にセーラの片腕なのよ」

ロッティーはドナルドに体の向きを変えると熱心に話し始めた。

「ベッキーにとっては、アメリカに行った事が本当に良かったのかもしれない。自分と同じ貧しい境遇でも、学ぶ事を諦めない沢山の人と知り合って、セーラもそんなベッキーを応援してね」

ロッティーは、ベッキーから送られて来る手紙の文法が、どんどん正確になって行った様子を思い出していた。drived、growned、you wasと過去分詞も仮定法過去も間違えていたある意味微笑ましい、拙い文面がどんどん洗練されて行った。恐らくキャリスフォード氏とセーラが、ベッキーを学校へ通わせているのだろう、とロッティーは想像していたが、あまりにも慎ましいベッキーは、ロッティーに宛てた手紙にすら学校へ通っている、とは書いて来なかった。
ベッキーからの便りは、いつも「お嬢様が、お嬢様が、お嬢様が」。とにかくセーラ一辺倒だった。

「人には思いがけない才能があってね」

ロッティーは微笑んで続けた。

「どうもベッキーは数字にとても強いみたいよ。小さな頃から限られた予算で買い物を任されていたせいかしら……キャリスフォードさんもセーラも、今ではベッキーをそれは頼りにして、安心して会計を任せているらしいの」

そう、と呟いてドナルドはベッキーのかつての様子を思い描いた。
この家に招かれて、再びセーラのお付きのメイドとして働けるようになった彼女の生き生きとした姿は容易に思い出せたけれど、数字に強いと言われてもにわかにはピンと来ない。

「一番大事な事はね」

そんなドナルドを見てロッティーが言った。

「ベッキーは心から信頼できる人間だ、って事よ。セーラの境遇が変わった時に、周囲がどんなに変わっても、今だから言うけれど……セーラ本人があまりにも頑なになってしまった時も、うろたえずにずっと変わらなかったのはベッキーだけだわ」

そう言った時のロッティーの様子は、何故かロナルドには馴染み深い物だった。
半分賞賛を込めてロッティーを見たドナルドの視線を勘違いしたらしいロッティーは、慌てたように付け加えた。

「私はあの頃子供過ぎて、セーラの助けにはならなかったの。今でも時々それを悔やむ事があるわ。私にとってセーラはいつでもママだったけれど………ねえ、知ってる?私が癇癪を起こしていた4歳の頃、セーラだって、たった7歳だったのよ」

そう言うとロッティーは、軽く唇を噛んで下を向いてしまった。




自分ではもう充分大人になったと思っていたある夜、ドナルドは自分の書斎でセーラと語り合った事がある。「君はアーメンガードやロッティーを大事な友人だと言うけれど、彼女達はただ君に依存していただけなのではないか」と。
自分が君なしではいられないから危険を冒して屋根裏部屋まで昇って行ったり、何とか話をしようとしていたのではないか、そう続けるドナルドに、セーラは静かに首を振って答えた。

「誰かが必死に自分を必要としてくれるありがたさは、愛され続けて来たあなたには分からないわ」

そしてまたこう続けた。

「私達にとって、あの頃あの学院は世界の全てだったの。その創造主に逆らう事なんて普通は出来なかった。それでも全ての危険を承知で、ただ私の事を好きだと、その気持ちだけで私に会いに来てくれたあの二人の気持ちを、私は一生忘れないわ」

と。



「あー…うん、あの」

ドナルドはえへんと妙な咳払いをするとロッティーに向かって言った。

「セーラは、君の存在に本当に慰められていたよ。それは本当。君の………子供過ぎたと言うのなら、子供過ぎるセーラへの愛情は、確かにセーラに届いていたよ」

本当?と言うようにロッティーが視線を上げてドナルドを見た。
ドナルドは耳元を赤く染めながら更に続ける。

「それを言うなら……君、知ってる?僕はあろう事かセーラの事を物乞いの女の子と勘違いして、銀貨をあげた事があるんだ」

今にも泣き出しそうだったロッティーの表情が緩んだ。

「ほんとに!?それで、セーラはどうしたの!?まさか受け取ったりしなかったでしょうね!」

”You are so kind little darling thing.”

セーラからそう言われた事を話したらロッティーは笑うだろうか。
ドナルドはそう思った。

「良かったら庭を少し歩かない?もし興味があるのなら、僕も君にその話をしたいんだ」

姉の策略に嵌ったような気がしなくもない。
でも、それも悪くないかもしれない。

「良かったら、腕を貸してもいいかな」

椅子から立ち上がってそう言ったドナルドの腕に、ロッティーはそっと自分の腕を絡ませた。

「あなたは………ほんの少しセーラに似てるわ」

ロッティーの言葉に、そうありたいとずっと思っていたとドナルドは答えようとした。けれど、口から出たのは違う言葉だった。

「君が側にいてくれると、僕はもっとそういう人間になれるような気がする」

ロッティーは静かに微笑むと小さく首を傾げ、ドナルドに誘われるままに初秋の庭へと降り立って行った。













テーマ : 二次創作:小説 - ジャンル : 小説・文学

| TOP |


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。