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僕は君が嫌いだ。(オチヒカ子)


「進藤、お前聞いてた?越智の事。」

普段の彼からは想像も出来ないような真面目な表情で和谷がヒカルを見詰めた。

「オレ・・・・・・何にも聞かされてなかった。結構ショックだよな。同期なんてそんなもんかって。てか、オレなんてあいつ相手にもしてなかったのかな。だけどオレさあ・・・・・」

ちょっと待てよ、とヒカルが和谷を制した。

「越智の事って何だよ。あいつがどうかした?」

心持ち和谷の表情が和らいだ。

「・・・・・何だ、お前も知らなかったのか。じゃ、しょうがねえか。あいつって昔からそういうヤツだったしな。」

「だから越智が何だって!」

「・・・・・・・・・・引退、だってさ。」

ひと言呟いて和谷が窓の外を眺めた。




その時のヒカルの気持ちをどう表現したらいいだろうか。
簡単に言えば、「裏切られた」としか言いようのない単純な怒りが燃え上がる思いだった。

「・・・・あいつ!だから大学なんか行くのよせって、あん時オレがあれ程言ったのに!」

「お前・・・・・4年前の事まだ根に持ってんの?」

今度は和谷が呆れたような顔をする。

「だって!あいつがそんな器用なマネが出来る奴じゃないって事、オレ達は知ってるだろ!」

うん、と和谷が腕組みをする。
中学を卒業した後、高校への進学をする者と囲碁の世界一本で活動する者と、同じ年代の集まりの中でも進路は微妙に枝分かれを始めた。
勿論、それぞれの家庭の考え方もあるし、ヒカルも越智が高校へ行くと聞いた時にはそれ程抵抗を感じなかった。

「だけどさ・・・・・あんな、大学なんてとこ行ったせいで、越智の大事な時間がどれだけ無駄になったと思ってんだよ!」

越智の大事な時間は、囲碁以外の場所で有益に費やされていたのではないか、と和谷は思ったが、賢明にもそれを口にする事は避けた。

「あいつ・・・!いっつもいっつもいいとこまで行って!なのにタイトル逃して!!」

「ああ・・・・・・それはなあ・・・・・・・」

自分にも思い当たるフシもあり、和谷は思わず嘆息した。

「それで!?引退してどうすんだよ!!まさかリーマンか?越智が?あのヤロウ、リーマンになるために大学行ったのかよ!!」

「大学院、進むらしいよ。」

あまりにも越智らしく、そして自分が考えても見た事のない世界への扉を知らされて、ヒカルが口篭った。

「・・・・・・な・・・・んで・・・?」

さあ、という声を待つまでもなく、ヒカルは棋院の事務室へと走った。越智が引退するという話を確かめ、それから越智に会って・・・・と、気ばかりが焦った。
けれど、返って来た答えはあっさりと和谷の話を認めるだけで、そして当の越智はと言えば、明後日正式に挨拶に来るという。
正式な挨拶、そんな物だけでオレ達とも別れようというのか、と思うと
はらわたが煮えくり返るような気がした。

「まあ、彼の場合は師匠に当たる棋士もいなかったし、いわば独学でしたからね・・・・。何だかんだ言って、今日までよく頑張ったと思いますよ。」

そんな説明もただ白々しく聞こえるばかりだった。

「越智の住所・・・・・・教えて下さい。」

電話をしてもあしらわれるだけだと思ったヒカルは、直接自宅に乗り込もうとした。けれど、事務員も簡単には個人情報を明かさない。
ここからではなく、誰か越智君の住所を知っている人に聞いてみて欲しい、そんなふうに宥められ、そうしてどちらにしろ明後日には会えるのだからと、越智が来る予定だという時間を教えてくれた。

会いたいと思っても会えない2日間は、ヒカルのフラストレーションをいや増すばかりだった。
そしてヒカルは、越智の住所はおろか電話番号すら知らないのだ。






「ムカつく・・・・・・」

その怒りが実は淋しさから生まれている事に、ヒカルはまだ気付いていない。












その日ヒカルは、越智がやって来るという時間の30分前には棋院に着き、越智の到着を待っていた。
車から降りたらまずあいつを捕まえて、引退なんてバカな事考え直させて・・・・それから・・・・・と考えていると、見慣れた黒塗りの車が近付いて来る。

やっと来やがった・・・・と、スピードを落として停止した車の後部座席を覗き込むと、そこには越智はいなかった。
長い間に顔見知りにもなった運転手が降りてきて、怪訝そうな表情のヒカルに向かって丁寧に頭を下げた。

「進藤さん、長い間お世話になりました。」

あ、いえ・・・と口の中で呟きながらもヒカルは必死で越智の姿を探した。

「あの・・・・越智は・・・・?今日これから登院だって聞いてたんですけど。」

それを聞いた運転手がほんの少し心苦しそうな表情を浮かべた。

「実は予定が変わりまして・・・・・一時間前にはこちらに。もう挨拶が済んだので迎えを頼むと連絡が入ったところです。」

あのヤロウ・・・・・・・!!!


予定が変わったわけではない。
最初から判っていて先回りをして、さっさと帰るつもりだったのだと、ヒカルには直ぐに判った。

「まだ中ですよね!」

ヒカルの問い掛けに運転手が頷く。

「ロビーで待っていると、そう仰ってました。」









ロビーの、いつも越智が座っている場所にその姿はあった。
ヒカルの凝視に気付いたのか、ぼんやりと辺りを漂っていた越智の焦点がヒカルに絞られた。

「・・・・・・随分早かったんだ。」

まるで他人事のような越智の言葉にヒカルが怒鳴り返した。

「オマエは30分後に来るんじゃなかったのかよ!!」

「君に会いたくなかったから時間をずらした。」

身も蓋もない越智の言い方にヒカルは絶句した。

「・・・運転手のおじさんがせっかくウソまでついてくれたのに、オマエはそれかよ。ああそうかよ。そんなにオレに会いたくなかったのか。何でだ!?・・・・・・何でじゃねえよな。会いたくないならオレが言う事判ってんだろうな。」

ヒカルが、越智が着いていたテーブルにドンと両の手の平を押し付け、その顔を睨みつけた。

「・・・・・・辞めんなよ。」


沈黙を破ったのは越智だった。

「悪いね。もう決めた事なんだ。」

「何で!」

越智がゆっくりと立ち上がった。
二人で立ったまま睨み合うような形になると、ヒカルが頭一つ小さい。

「・・・・上から見下ろすな。」

憮然と呟くと、越智がくすりと笑った。

「対局の時はいつも正座だったからね。それに僕は君と並んで歩いた事もなかった。」

そう言うと窓辺に向かって歩き出す。
ヒカルに背を向けたまま越智はガラスに当たる雨粒を指で辿っていた。
髪型は相変わらずなのに、いつの間にか越智の頭は体とバランスの取れた綺麗な形に整い、そこだけ妙に少年ぽさを残したうなじがすっと伸びている。

キノコ頭とか・・・・・バカにして悪かった・・・・
と、激しく的外れな謝罪を口にしようとヒカルが言うよりも早く、越智が口火を切った。

「ねえ進藤。僕は君が嫌いだったって知ってた?」

「・・・・・・え?」

突然の問いにヒカルは言葉に詰まる。

「え・・・・・そりゃ・・・・・あんまり好かれてはないだろ、とは思ってたけど・・・・・・・。」

「大嫌いだったよ。」

振り向きもせずに続ける越智に、ヒカルは言葉を失ったまま視線を床の上に彷徨よわせた。
キノコ頭とか言ってたからか?
あれはオレなりの一種の・・・・愛情表現だろうが。
面と向かって吐き出された言葉にヒカルは躊躇えた。

「・・・・・・ショック?そうだよね。君はそういう人だもの。」

「そういう・・・・って・・・・・・何?」

「僕が棋士を続ける条件はね、大学に進んでなおかつ、卒業までに何かのタイトルを取る事だったんだ。」

突然話が変わったにも拘わらず、ヒカルはその条件に食い付いた。

「待てよ越智!それならまだ何とか親説得出来るだろ!いいとこまで行ってんだから!あ・・・・だから大学院なのか?それで・・・・・・!」

「そんなに甘くないよ。手土産もなしで親の会社に居候するなんて肩身が狭いからね、これから法科大学院へ進んで、企業弁護士になる。」

「何だよそれ!タイトル取れなかったら親のスネかじるから、だから大学も行ってたのかよ!そんなの辞めろってば!頑張れよ越智!オマエだったら・・・・・!」

「僕が君を嫌いなのはね。」

そう言うと越智はくるりと体を反転させ、窓枠に体をもたせかけたままヒカルの目を見詰めた。

「その世界の主役になるために生まれて来た人間の、無意識な傲慢さが我慢出来なかったから。」

難しすぎてよく判らない、とヒカルは思った。

「判らない?そうだよね。君は意識していないんだから。だけど、だったらどうして自分の世界を守るために、こうやって必死に僕まで引き止めようとする?いつまで君の回りに皆がいなければ我慢できないの?
君が主役の世界は、君にとっては居心地のいい場所かもしれない。でも、どうしてそれを他人にまで押し付けようとするんだ。」

「だって・・・・それは越智・・・・・・お前だってずっと頑張って・・・・・・」

「・・・・・・・頑張っても僕はここでは主役になれないんだ。」

越智は薄っすらと笑った。

「僕の事を恵まれていると思う人間が多い事は知っている。でも僕はそれを自覚している。僕に言わせれば・・・・・・・本当に恵まれていたのは君だ。」

「・・・・・・オレ・・・・・?」

「ここは君の場所だ。だから皆が君を意識する。関心を持つ。だから君は誰かから無視されたり馬鹿にされたりするとそれが我慢出来ない。・・・・・結局、塔矢アキラも高永夏を君を意識し過ぎる余りの行動だったんだろうけれどね。
そして、君はここで誰からも嫌われないんだ。僕がひと言『嫌いだ』と言っただけでそんなにショックをうけている。だから・・・・・・僕は君が嫌いなんだ。」


「お前が嫌われるのはお前のせいだろ!性格悪いし!カンジ悪いし!!おまけに負けるといつでもトイレに引きこもって壁叩いてさ!!!」


しまった言い過ぎたか、とヒカルは思った。
けれど越智は穏やかに返事をする。

「あれはいい修行になったよ。どんなに頑張っても勝てない。どんなに頑張っても誰も僕を意識しない。そして、どんなに壁を叩いても何一つ変わらない。それが判るまでに随分時間がかかった。」

「・・・・・・・越智・・・・・だって・・・・オレ・・・・・お前もずっと一緒に・・・・・・」


越智が何を言いたいのか、正直な所ヒカルにはよく判らなかった。ただ一つ判るのは、越智が今この世界を、自分を含むこの場所を捨てて行こうとしている事だけだった。
そして、ヒカルはそれをとても淋しいと思った。


「最後に君と話が出来てよかった。僕にとって君との決別がこの世界との別れだ。お互い進む道は違ってしまうけれど、僕は僕の世界で主役になるよ。」

何だか気持ちが悪いくらいに爽やかだ、とヒカルが思うような表情を浮かべた越智は、右手を差し出しかけて、それから思い直したようにその手を下げた。


「さよなら、進藤。」


さよなら、僕の少年時代、と越智は心の中で思う。


「待てよ!越智!携帯の番号!!!」


ヒカルは、自分が越智の携帯番号もアドレスも知らない事に思い至った。

「また連絡する。」

しれっとした越智の言葉だった。
ウソだ、とヒカルは思い、越智もまたヒカルがそう悟った事を知っていた。


「泣くなよ、進藤。」


越智の右手がもう一度持ち上がって、ヒカルの頬を一度だけ撫でた。


「君は、側にいる誰かがいつかはいなくなる事を、ずっと前から知っていただろう?」


え?とヒカルは顔を上げた。
側にいた誰かがいなくなった事を、誰も知らない筈なのに、と思う。


「なん・・・・・・で・・・・・?」

「何となく。君は誰かを失くした事があるような気がしていた。ずっと。」

呆然としたようにヒカルが越智を見詰めた。

「誰がいなくなっても、君は、君の世界を極めるんだ。」


どうして自分は泣き止む事が出来るのだろうか、とヒカルは思った。
本当に悲しいのに、もう自分は佐為を失った時のように、場所も憚らずに号泣する事も出来ない。これが、大人になって行くという事なのだろうか。
越智を引き止めたいと思うのに、越智の気持ちが判ってしまって、もうあの子供の頃のように時間を戻して欲しいと無理な願い事も出来なくなってしまった。

「・・・・・・誰がいなくなっても・・・・・?」

「うん。」

「オレはいつか一人になるのか?」

「うん。きっといつか。」

「それが判ってて、お前はオレを置いていくのか?」

しょうがない、とでもいうように越智が笑いながらため息をついた。

「強くなれ、進藤。僕は君が嫌いだけれど、それでも・・・・・・・」


それでも何?とヒカルが尋ねるより前に越智は背中を向けてしまった。

「さよなら。」

呟きにも似た越智の言葉が微かにヒカルの耳に届いた。









「それでも君の碁を心から愛していたよ。」









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